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コーコモー(、)は、アメリカ合衆国インディアナ州ハワード郡にある都市であり、同郡の郡庁所在地である。2010年国勢調査による人口は45,468人であり、2000年の46,113人から1.4%減少していた。インディアナ州では人口で第13位の都市であり、ハワード郡とティプトン郡で構成されるコーコモー大都市圏の主要都市である。2012年1月1日、市の南部と西部にあったアルトとインディアンハイツを併合して、面積では7平方マイル (18 km2) 以上増加し、人口は57,000人近くになった。近年、中華人民共和国の浙江省金華市に位置する県級市、東陽市と姉妹都市を結んだ。 コーコモーはインディアンの言葉から名付けられた。郡庁所在地になったことで法律実務からまず恩恵を受けた。南北戦争前、鉄道でインディアナポリス市や東部の都市と結ばれ、成長を続けることになった。天然ガスの大きな埋蔵量が発見されてから成長が加速し、1880年代半ばにブームを呼んだ。このブームが惹き付けた事業の中に、新生間もない自動車産業があった。コーコモーの特に自動車産業でかなりの数の技術と産業の革新が起こり、その結果コーコモー市は「第一の都市」と呼ばれるようになった。現在も市内の雇用はかなりの比率で自動車産業に依存している。 == 歴史 == === 初期の歴史と法人化 === 開拓者の伝説では、コーコモーという名前の由来は、インディアンの言葉で「黒い胡桃」を意味する「コーコモコ」あるいは「マココモ」を縮めて「コーコモー」としたものであり、マイアミ族最後の酋長リチャードビルの4人いた息子の1人の名前だったと言われている。伝承では身長が7フィート (210 cm) あったと言われ、誤って「酋長」の肩書きが与えられたとされている〔Baker, Ronald L., ''Hoosier Folk Legends'' (Indiana University Press: 1984), p. 184.〕。「コーコモーの父」と呼ばれるデイビッド・フォスターは、コーコモーが「地球上で最も気難しい町」だったので、「最も気難しいインディアン」でるコーコモーから町の名前を採ったと主張していた。コーコモーは1775年に生まれ、1838年に死んだと考えられている〔Morrow, Jackson ''History of Howard County'' (Indianapolis: B.F. Bowen & Co. ), Vol. I (“Morrow I”), p. 48.〕。コーコモーが存在したという唯一の文献証拠は、その「妻」のために12ドルで小麦粉1樽を購入したという交易所の記録である〔。コーコモーの遺骸は、1848年に製材所建設時に他の者達の遺骸と共に発見され、パイオニア墓地の「北東隅」に移葬されたと伝えられている〔。ペルー・マイアミ族の伝承では、マイアミ族が「コーカマー」と名付けたソーンタウンから町の名前が採られており、その名前は1834年のウォバシュ川フォークス条約に「コーカムワー」として出ている。この名前は「ダイバー」(水に潜る水鳥の総称)と翻訳された〔Dunn, Jacob Piatt, "Indiana Geographical Nomenclature," ''Indiana Quarterly Magazine of History'', Vol VII no. 3, pp. 109-14 (September 1912), pp. 110-11.〕。 インディアン強制移住の結果として、1840年までにハワード郡(1846年まではリチャードビル郡)にいたマイアミ族は約200人にまで減少した。主要な開拓地はワイルドキャット・クリークの南岸にあったコーコモー村だった。インディアン道がコーコモーとフランクフォートやソーンタウン(ワイルドキャット・クリークに沿って)を繋ぎ、カスビルを経てペルーに、またグリーンタウンを経てメシンガムシャに繋がっていた〔。当時、デイビッド・フォスターが保留地の境界線とワイルドキャット・パイクの交差点近くにハワード郡の交易基地を持っており、そこで合法の取引と、マイアミ族に対するアルコールの違法な販売をおこなっていた〔Morrow I, p. 202.〕。 1844年にリチャードビル郡が設立されてから間もなく、郡庁所在地を設立するために指名されたコミッショナーが、フォスターの土地から寄付を得られるようフォスターと交渉した(1846年の徴税記録では、フォスターは552エーカー (2.23 km2) の農地と事業地区の67区画を所有していた)。その要請があったときに、コーコモーにあったものといえば、フォスターの丸太造り家屋と納屋、およびマイアミ族の小屋数個に過ぎなかった。コミッショナーはワイルドキャット・クリークの南岸にある肥沃な土地の寄付を求めたが、フォスターはそれを拒否し、その代わりに深い森と湿地のあったクリークの北岸40エーカー (0.16 km2) を寄付した〔Morrow I, pp. 56-58.〕。その寄付の条件として、フォスターがその土地に郡庁舎を建てることを求めていたが、フォスターはそれを後に辞退し、ルーファス・L・ブラワーズが28ドルで請け負った。その建設の遅れで2ドルの罰金を取られた〔Morrow I, p. 112.〕。丸太造りの郡庁舎は1845年に完成した。 1855年6月、ヘンリー・A・ブラウズがハワード郡政委員会に、コーコモーの町を法人化するよう申請した。最初の選挙は、不明の理由で行われなかったが、1855年10月1日に選挙が行われた。法人化賛成62票反対3票という結果により、郡政委員会は町の法人化を決定した。 1865年3月31日、コーコモーを市に昇格させるための住民投票が行われた。その提案が成立し、ネルソン・パーダムが初代市長に選出された〔Early Days, p. 330.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コーコモー (インディアナ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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